楽器庫の春


冷え切った暗闇の空間に封印された僕が最後に光を見たのは何年前になるか定かではない。もう二十年もの年月を経たのか、たったの二年ほどのことにしか過ぎないのか、無機物である僕は今まで人間と時間を共にして時の流れを感じていたので孤独に閉ざされているうちに時間感覚というものを忘れてしまったようだ。保護というよりは棺桶のようなケースに眠らされ続けているうちに僕は死んだように全ての物事を忘れ去ってしまったらしい。パートナーと共に感じた喜びを二度と味わえなくなってしまうのだと失望に陥ったことすら僕の記憶から除去されていたのだ。

***

 へたくそなトロンボーンの曖昧な音階が聞えてきた。合奏に出遅れて仕方なく楽器庫で自主練習でもしているのか。あるいは、自分の演奏に自信がなくあえて欠席しているのだろうか。はじめはそんな風に思っていたのだが、その曖昧な音階の調子を聞いているうちに、トロンボーン奏者はまだ楽器に不慣れの新入生であることを悟った。
──そうか、今は春か。

 と、僕ははっきりとしない上下する旋律の中で久しぶりに季節感を感じたような気がした。
 今年もホルンには新入部員がやってくることはなかったのだろう。年々入学者が減りつつあるこの学校で新入生を入部に勧誘すること自体困難だというのに、ただでさえ数少ない部員たちをそれぞれのパートで分割してしまえば、まず人気があり吹奏楽には絶対不可欠であるクラリネット・トランペット・トロンボーンパートに自然と人が流れていってしまうのは当然のことである。もし、ホルンが必要な楽譜であれば代役としてトロンボーンやユーフォニウムが伴奏やソロを務めていたのは毎度のことで、去年の三年が引退して以来、誰一人ホルンを遊び半分でさえ吹いてみた、という試しがないらしい。師がなければ後輩もできるはずがないのだ。そのせいといっても何だが、使われなくなったホルンばかりが楽器庫に積み上げられ、他楽器の奏者達はまるで墓地にある墓石を観察するような目つきでホルンケースを眺めていたに違いない。僕もその墓石に眠るひとつだった。
 そんなことをぼんやりと考えているうちに、──おそらく、さきほどの奏者が──深刻そうな深い感情のこもった長い溜息を漏らした。
「これもだめだな…」
そう聞えたような気がした。透き通った少し控えめのソプラノの少女の声だった。

僕の予想とは違って「春」といっても仮入部期間か、まだ入部して本当に間もないのだろうか。きっと自分に合う楽器を探しているのだろう。

…ガタリ。力なくトロンボーンを傾ける音がした

それからというもの、少女は毎日のように楽器庫に楽器を持ち込み、そこで奏でるようになっていた。昨日はフルート。その前はユーフォニウム。他にもクラリネット、トランペット、アルトサックスなどがあった気がする。僕はいつの間にか少女の楽器の演奏を聞くのが楽しみとなっていたのだ。どんな楽器にするのか。そして、どんな風に演奏をしていくのだろうか。あくまで演奏されるのは僕ではないのだが、こうして少女の演奏を聞いていると自分をはじめて奏でてくれたパートナーとの出来事が蘇るようで僕は好きだった。
 今頃、かつての僕のパートナーは何をしているのだろう。吹奏楽などすでに諦めてしまったのだろうか。それとも、僕と出会った後もどこかでホルンを奏でているのだろうか。だが、あの頃の僕らは毎日が楽しくて仕方がなかったことには間違いない。パートナーも僕も演奏の仕方を知らぬ未熟者だったからだ。どうすれば良い音が出るのか彼女も僕も分からずに毎日の様に行き当たっていが、少しずつ少しずつ僕らは確実に進歩していった。小さな経験を重ねていくうちに、いつかその成長が自覚できたときの達成感と感動は一体、どれほどのものだったのだろう。

 
少女も、僕らがそうだったように感動を分かち合える楽器と巡り合えたら…。その楽器にとっても最高のパートナーとして成長してゆく喜びを知って欲しい。気付かないうちに僕は少女に対してそんな感情が芽生えていた。
 同時に、ただ楽器庫に封印されているだけではない、最高のパートナーとして出会える日をいつまでも待ち続ける楽器としての誇りを彼女と出会ったことによって再び思い出させてくれたような気がした。楽器である以上、パートナーがいなければ僕はただの金属のガラクタに過ぎない。息ではなく、命を吹き込んでくれるパートナーが必要なのだ。
 そうだ。僕が眠っているのは墓石なんかではない。当然、保護という意味もあるのだが、いつか新しいパートナーを迎えた時のためにある扉でもあるのだ。その扉から光が差し込むとき、僕らは再び楽器としての役目を果たすことになるだろう。


──僕はそのときをいつまでも待っていよう。新しいパートナーのために…



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